10・23震災 小千谷病院レポート
恐怖の中の感動 −佐藤道子−

 小千谷市は、新潟県中越地震の震源に近く、大きな被害を出しました。小千谷総合病院(287床)には、地震発生時、4階から7階に219人が入院。65歳以上が7割、自力で歩けない患者60人、手術間もない患者25人。壁などが大きく壊れ、生命線と言われる「水」「電気」「酸素」が切断され、余震が続く中、全患者を無事避難させました。奇跡的にも入院患者のけがはゼロ。日頃の訓練の成果でもありますが、そこでの職員の奮闘の一端を、看護師の佐藤道子さんの「レポート」で紹介します。

患者さんを
 10月23日、午後5時56分、私は小千谷病院7階の看護室で日勤の残務整理をしていた。ドシンと突き上げられるような衝撃のあと、強い揺れが来た。「まさか、小千谷で!」と廊下に出た。
 火災報知器が鳴り、電気が消えた。2回、3回と続く強い揺れに清水器が外れ、蛇口をひねったように水が廊下に流れ、蓋をしようとしたができない。「もうダメだ。私はこのビルの下敷きになるのだ!」と、阪神大震災の光景が頭をよぎったが、「私の使命は患者さんを非難させることだ」と自分に言い聞かせて病室に向かおうとした。テレビが、ベットが、夕食を積んで配膳車が、本棚が倒れ、足の置き場も無い惨状である。手すりにつかまっているのが精一杯であった。

頭を縫いながら
 暗闇の中から、「1階に非難しよう!」との看護師の大きな声が響いた。まず、歩ける患者から一階のホールに誘導して行った。私は、小児科の担当であった。幸いにも入院は3人だった。母親と、まだ生まれて1カ月の乳児に付き添い、階段の壁が横上から落ちてくる中を気遣いながら1階へ誘導した。そして、動けない患者を移動させるために7階を何度も往復。担架で、シーツで、1人、2人と移動させていった。倒れそうになりながら、一人でおんぶして移動する職員。自宅で、物が頭にぶつかり出血、何針も縫いながら、患者の移動を手伝う看護師。自分の頭の血で真っ赤になった服を着ながら、必死に患者を移動している姿が眼に焼きついた。約2時間で219名の患者全てを一階へ下ろした。
 必死で、一階に移動させた後は、患者さんへの声かけ、オムツ交換、吸引、体位交換と、7人の看護師は声を掛け合った。

まるで野戦病院
 余震が続く中、「この先どうなるのだろう」と先の見えない不安がいっぱいになる。次々と救急車でけが人が搬送されて来る。家にいるのが不安で病院に逃げてくる親子。病院の1階はまるで戦場のようだった。ホールに布団を敷き、ひしめき合う床の上で点滴をしたり、血圧を測る、まさに野戦病院そのものだ。
 手術をしたばかりの患者さんや人口呼吸器が必要な患者さんは、その日の内に、長岡市内の病院に受け入れてもらった。
 翌日の24日の昼に、おにぎりと「水」の支援物資が届いた。患者さん1人におにぎり一個を配った。患者さんは昨日の夕食前から何も食べていない。付き添っている家族の食べ物は無い。「ごめんなさい」と心の中で謝りながら配った。余震が続く中、患者さんたちを他の病院に移送。残った患者さんも隣接する、耐震構造の老健施設へ移動した。

みんなの力で
 食料と水が不足する中で、栄養科の人たちの努力で、レトルトの缶詰などをうまく使った食事(1日2食+おやつ)が提供された。震災後は、患者さんの身体を拭く余裕もなかったが、ポットの少量の湯を利用して身体を拭いた。
 地震当日、車で連れられてきて、すでに息が無かった人がいたが、混乱の中で、看護師として何も対応してあげられなかったことが心残りだ。
 11月1日から透析の治療を開始、4日には外来を再開、8日には病棟の一部を再開するまでになった。しかし、検査施設や検査機器の使用もままならない状態で、医療機関としての完全補修にはまだまだ時間と経費がかかる。

感激と感謝
 震災から1ヶ月余り経過したが、あの日を思い出すたびに涙が出てくる。それは、悲しいだけの涙ではなく、感激と感謝の涙だ。
 自らの家や家族のことを気にしながらも、自分のことも顧みず患者を移動させる職員、不眠不休で病院の「自家発電」の水をバケツリレーで補充する職員、夜遅くまで病院の補修を休むこともなく手伝う職員、必死に工事をしている方々。
 そして、全国から寄せられる心のこもった支援物資と激励の声。
 感謝の気持ちがこみあげてくる。