新潟県厚生連労組中条支部
仲間に支えられて再建へ団結

パニック
 新潟県十日町市にある新潟県厚生連の中条病院で働く岩田房穂さん(事務職39歳)の住まいは、病院より車で約40分離れた震源地に近い小千谷市にある。新潟県中越地震(10月23日、午後5時56分)でほぼ全壊した。隣にある農作業用のカマボコ(ドーム)型の倉庫を借り、家財道具を運び、水道を引き、プロパンを持ち込み、一家5人で暮らしている。お風呂も近所(実家)のお世話になっている。
 「夕食のテーブルを家族で囲み、さあ食べようと言って、ハヤシライスの入った自分の食器をテーブルの上にトンと置いた瞬間、ガン・ガン・ガンと来た。すぐ電気が消え真っ暗になった。ガスの元栓を締めようとしたが、揺れがひどくて動けない。食器棚が倒れてきてガラスの割れる音がした。主人は、子供を抱えてテーブルの下に入った。パニック状態になった。近所の人が、『危ないから外にでよ!』と声をかけてくれた。まず足が不自由な父を主人と二人で抱えて外に出そうとしたが、襖が開かない。主人が蹴破った。玄関の戸は、幸いにもすでに割れていた。やっとのこと外に出ると家は傾いていた。
 トマトを栽培していた4棟のビニールハウスの下地を整地して、しばらくは近所の方々との避難生活となった。岩田さんのご主人が働く会社も大きな被害を受け、収入も雇用も厳しい。国や県の支援補助金等も制限があり、家を建て替えるメドは立たない。家の裏山は、今回の地震で真っ二つに大きな亀裂が入った。いつ何時崩れてくるかわからない。さらに費用のかかる新たな土地取得も検討しなければならなくなっている。

患者の転送
 中条第二病院の精神科(150床)の「痴呆」病棟で働いていた山田香織さん(看護師、27歳)の住む中里村は、震度6となったものの比較的被害が少なかった。自宅にいた。患者のことが心配でならなかったが、すぐには危険で動けなく、翌朝病院に駆けつけた。
 患者さんは、隣接する老人保健施設のホールに布団を敷き、まさに野戦病院にいるような状況だった。すぐ近隣の病院への患者さんの搬送が始まり、通常は1時間20分ほどで行ける長岡市の医療センターまで、道が寸断されているため長野経由で5時間かけて送った。「どこに行くんだ」「戻って来れんのか」と心配する患者さんもいた。慣れない転院先で不安な患者さんのために、看護師達もいっしょに行って対応した。患者さんは、「早く帰りたい」と望んでいる。山田さんも、「早く第2病院を再開して、患者さんに帰ってきてもらい、元の病棟で働きたい」と訴えるように話す。

くやしさ
 第2病院は昭和42年の建築、今年春、約6億円かけて改装したばかりだ。他の新しい施設には大きな被害はなかった。職員の間には悔しさがにじむ。
 新潟県厚生連からは、第2病院が再開されるまで看護助手や調理部門の職員の「解雇」の意向が示されたが、近隣6市町村長への要請や団交などの労組側の運動で、まずは来年4月までの雇用継続を確認した。可能な施設の改修による一部開院も検討されている。精神科の患者家族会も労組と共に再建に向けた署名活動を展開するという。再建に向けて、経営主体である新潟県厚生連の、責任性と積極性も問われている。

仲間の支援
 地震の翌日には、長野厚生連佐久病院の仲間が、トラックに食料を積み込み、医師や栄養士も同乗、渋滞の中、車を救急車両ラインに入れ、「病院の患者に食料を届けるのだ」と必死に掛け合い、通行止めになっている高速道路を飛ばして現地に駆けつけている。
 新潟県厚生連労組(佐藤順子委員長)の仲間は、「協力を惜しまない」「秋闘要求は中条の再建要求を最優先しよう」「冬のボーナス要求は抑えても…」と、みんなが言って励ましてくれた。
 「この仲間の気持ちと支援がなかったら、支部だけではどうにもならなかった。立場の弱い人から辞めていったと思う。整理解雇者が出なくて、ほんとうによかった。」と支部の書記長でもある岩田さんは言う。

気持ち一つに
 職員は、震災以降1ヶ月余、病院の後片付けや、地域で「心のケア」活動などに従事してきた。12月1日から、1ヶ月クールで、新潟県厚生連の関係15病院に別れて働くことになった。
 中条支部(小川利子支部長)の仲間は、県内に離れ離れになるが、「組合員の気持ちを一つにし、厚生連で働く仲間の力も借り、地域医療を守るために運動を強め、第2病院を再建させたい。そして、職員の雇用と生活も守りたい」と、団結と決意を固めている。